富山地方裁判所 平成3年(行ウ)2号 判決 1992年10月09日
原告
本波ハナ
右訴訟代理人弁護士
木田秀直
被告
魚津労働基準監督署長橘忠弘
右指定代理人
宝田明芳
同
新井將一
同
沢井秀治
同
浜屋豊
同
小西紘二
同
斉藤幸夫
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告が昭和六二年三月一九日付けで原告に対してなした労働者災害補償保険法による療養補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
第二事案の概要
一 争いのない事実
1 原告は、大正九年生まれで、富山県下新川郡宇奈月町所在のホテル桃源(事業主石田きよ)に雇用され、雑役婦として勤務していたが、昭和六一年一二月三〇日、四階配膳室付近で食器洗い機と食器棚の間で食器類を運搬する仕事をしていたところ、午後六時ころに渡り廊下付近で転倒(以下「本件転倒」という。)して救急車で黒部市民病院に運ばれた。同病院で診断の結果、脳内出血を起こしており、脳内血腫除去の手術を受けたが、左上下肢機能障害が残り、現在も入院療養中である。
2 原告は、同六二年二月一〇日、被告に対し、右転倒により脳内出血を生じたものであり、これは業務上の災害に該当するとして、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づき、同六一年一二月三〇日から同六二年一月三一日までの療養補償給付の請求をしたところ、被告は同六二年三月一九日付けをもって、原告に対し、右脳内出血は業務上の事由によるものとは認められない、との理由で不支給決定(以下「本件処分」という。)をした。
そこで、原告は、富山労働者災害補償保険審査官に対し、本件処分についての審査請求をしたが、同審査官は同六三年二月八日付けで右請求を棄却する旨の決定をした。
このため、原告は、同年三月九日、労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は平成二年一一月一三日付けで右請求を棄却する旨の裁決をし、右裁決は同月二七日ころ原告に対して告知された。
二 争点
1 原告の左上下肢機能障害を生じさせた脳内出血は、本件転倒の際に左前額部を打撲、負傷し、その負傷によって生じた外傷性脳内出血であるか否か。
2 原告の脳内出血が外傷性でないとしても、本件転倒により精神的身体的な負荷が生じ、これに基づき脳内出血に至ったものであるか否か(脳内出血がいかなる種類のものであるにせよ、本件転倒との間に因果関係が存するか否か)。
3 原告は、脳内出血の原因が本件転倒にあることを前提としたうえで(争点1及び2)、本件転倒が業務上の事由に該当すると主張するが、その転倒の原因は、原告の主張するように、
(一) 原告とともに食器類運搬の仕事に従事していた中易京子が使用していた台車が原告に衝突又は接触したことによるものか否か。
(二) 廊下が濡れて滑りやすく、やや傾斜があったことから、原告が足を滑らせたことによるものか否か。
第三争点に対する判断
一 争点1について
1 原告の従前の健康状態及び病院へ搬送された時点以後の状態については、以下の事実が認められる。
(一) 原告の血圧測定結果は、昭和五二年三月七日には収縮期血圧一三六mmHg、弛緩期血圧七八mmHgであった(<証拠略>)。
原告は、同六一年六月二四日の血圧測定結果が一七〇mmHg―九〇mmHgであり黒部保健所において精密検査の結果、眼底検査では異常が認められなかったものの、高血圧虚血傾向で要指導の指示を受けたため、同年七月一七日と八月二三日に宇奈月町内の桃原診療所において医師の診察を受け、高血圧症と診断されたものであるが、その際の血圧測定結果は一六八mmHg―九〇mmHg、一六〇mmHg―八〇mmHgであった(血圧の測定結果について争いがなく、その余は<証拠略>)。
(二) 同年一二月三〇日午後六時一〇分ころ、救急隊員が原告の転倒場所に到着したとき、原告は、意識がもうろうとして前頭部には腫れが見受けられる状態であった(<証拠略>)。
(三) 原告は、同日午後六時三七分ころに、黒部市民病院に救急車で搬送されたとき、傾眠状態(呼び掛けがなければうとうとする軽い意識障害)及び左片麻痺(左半身不随)の状態であり、収縮期血圧が二一〇mmHgで、左前額部に皮下血腫(直径一五mm)があったが、頭蓋骨折はなく、眼底に出血はなかったものの胸部X線撮影によると大動脈弓の石灰化という動脈硬化症が存した(<証拠・人証略>)。午後七時二〇分ころ原告に対して頭部CTスキャンが施行されたが、右被殻部に、かなり完成された一つの塊としての中等大の血腫がみられる状態であった(<証拠・人証略>)。原告は午後七時五〇分ころに入院となったが、その時点での状態は、血圧が二三四mmHg―一四〇mmHg、昏迷、多動、了解不能、右ホルネル症候群(瞳孔の縮小、眼瞼の狭小、眼球の後退を三主徴とする症候群)、右への共同偏視、左凝視麻痺、頸部右方回旋位、左完全片麻痺(左顔面、舌も含む)、左下肢伸展位硬直、両側バビンスキ反射(足底の外側を打診槌把で引っ掻くと正常な場合と異なり母趾が足背に屈曲する現象)が認められる状態であった(<証拠・人証略>)。
(四) 午後九時三五分ころ、原告に対して沖医師による右前頭側頭開頭術と脳内血腫除去術が施行されたが、手術時には原告の脳内に、外傷による直接の脳損傷(coup injury、外力が加わった場合に先に加速する頭蓋骨と加速しない脳内物とが衝突して損傷すること)や二次的な損傷(contre-coupinjury、外力を受けた反対側で加速している頭蓋骨と加速しない脳内物の間の隙間にできる陰圧によって損傷すること)による出血、硬膜下血腫、脳表面の出血等の外傷による変化の所見は存しなかった(<証拠・人証略>)。
(五) その後、原告の意識障害は徐々に改善され、同六二年一月七日ころから左片麻痺及び左知覚鈍麻の状態に落ち着き、結局左上下肢機能障害で身体障害者福祉法別表に基づく五級相当の障害が残った(<証拠略>)。
2 原告は、一次的には脳内出血が外傷性のものであると主張するので判断するに、原告の左前額部に皮下血腫が存したものの頭蓋骨折はなかったこと(前記1(三))、外傷性の場合には前頭葉と側頭葉の表面に出血し、これ以外に硬膜下血腫等をも生ずる場合がほとんどで、被殻部に限局して出血が生ずることは極めて稀であるところ(<人証略>、なお原告は、<証拠略>に、閉塞性頭部外傷例で〇・五から三・六パーセントの割合で脳室内出血がみられるとの記載があることを指摘するが、同号証には同時に脳室内出血単独例は極めて少ないと記載されている。)、原告の場合は被殻部の出血であり(前記1(三))、開頭術を行ったところcoup injuryやcontre-coup injuryによる出血、硬膜下血腫等の外傷性特有の脳内変化の所見がなかったこと(前記1(四))、外傷性の場合にはCTスキャンで撮影すると血腫がまだらで不規則な顆粒状の状態を示すが(<人証略>)、原告の場合そのような状態は示していなかったこと(前記1(三))、外傷性の場合には強い外力が加わった直後にはCTスキャン上血腫は見られず、約一二時間以降から脳内血腫が生ずるところ(<人証略>)、原告が転倒したのは午後六時ころでCTスキャンを施行したのが午後七時二〇分ころであるが、CTスキャン施行時には脳内血腫は既にかなり完成された一つの塊として存在していたこと(前記1(三))、脳内出血は三時間から六時間くらい持続して大きくなるものである(<人証略>)ところ、右のとおり血腫が既に塊として存在していたことに照らすと、少なくともCTスキャン撮影時の三時間前には出血が始まったと考えられること、更に、原告には高血圧症の症状があり搬入時の収縮期血圧も二一〇mmHgと高く(前記1(一))、大動脈弓の石灰化という動脈硬化症がみられ(前記1(三))、出血部位が高血圧性に好発の被殻部であって血腫の態様も高血圧性特有の一つの塊として存在している(<人証略>、前記1(三))高血圧性脳内出血と考えることが合理的であること、以上の点を総合考慮すると、結局、原告の脳内出血の原因を外傷性のものであると認めることはできないというべきである。
二 争点2について
また、原告は、脳内出血が外傷性のものでないとしても、それは、本件転倒による精神的身体的な負荷に基づくものであって、いかなる種類の脳内出血であるにせよ、これと転倒との間の因果関係が存する旨主張するが、右主張を認めるに足りる証拠はなく、かえって、前述のとおり脳内出血は、午後七時二〇分ころのCTスキャン撮影時の三時間前には始まったと認められるから、原告の右主張は理由がない。
三 結論
以上によれば、原告の脳内出血は、業務上の事由によるものとは認められないから、その余の主張について判断するまでもなく、原告の請求は理由がない。
(裁判長裁判官 渡辺修明 裁判官 中山直子 裁判官 片田信宏)